ちびくろ日記

小さくて色黒、平凡な大学生の日常。

最も○○な△△のひとつ

ほとんど趣味のような話です。

 

 

 

「最も○○な△△のひとつ」

 

ぼくは、何年も前からこの言葉に首を傾げ続けています。

 

最も高い山のひとつ、最も珍しい建物のひとつ、最も有名な絵画のひとつ…

 

違和感、すごく違和感です。

 

 

「最も」と表すということは対象となっている分野のトップ、ナンバーワンであるはずです。それなのに、その後に「ひとつ」がついてしまうと、「最も」なやつの他にもトップが存在することになります。

 

つまり、サクッと矛盾しているわけです。

 

しかし、この表現は色々な本にも登場しますし、さらにはぼくの高校時代の国語の先生もこの言葉を使っていました。

 

その度になんでだろうと考えたり調べたりしたのですが、一向に明確な答えを見つけられていません。今は英語の表現の影響だろうなー、とか、そもそも「最も」自体が強調表現かもしれないなー、ぐらいで落ち着いています。

 

 

 

 

イッテQのやつも気になります。

 

ぼくは個人的にイッテQが大好きで、毎回録画して見ています。

特に、お祭り男こと宮川大輔が行くお祭りの回がめちゃめちゃ好きです。

 

しかし、ぼくはそのコーナーの冒頭でこれまた首を傾げます。

 

「(国名)”は”、△△祭りー!!!!!」

 

これは、宮川がその回の祭りの開催国を紹介するときに

最初に言うセリフなのですが、この「は」が気になって仕方がありません。

 

「は」に「の」的な意味があっただろうか、

それとも違う意味で使われているのか、

 

これも調べてみたのですが、やはり答えは出ていません。

気になります。

 

 

 

 

 

二つの例を見ていただいた上で、結局ぼくが何を言いたいかというと、

「言葉はおもしろいなぁ」ということです。

 

たとえ言葉に違和感を覚えてもニュアンスはしっかり伝わるし、

ニュアンスは伝わってもやっぱり気になってしまうし。

 

一文字一文字は何の意味も持たないのに、

それを順序立てて紡いでいくことで、メッセージが生まれたり。

 

そう考えると、不思議で面白いなって思います。

 

 

といっても、特別言葉に詳しいわけでも、

漢字が得意というわけでも、何でもありません。

 

ただ、このように趣味でブログを書いてる影響なのか、

ほんの少しだけ言葉について考える機会が多い、

ということはあると思います。

 

 

例えば、言葉遣いについて。

皆さんも経験があると思いますが、言葉遣いによって、

その人がどのような人であるのか、なんとなく分かることがあります。

 

やんちゃな人は勢いのある言葉をよく使ったり、

上品なマダムは穏やかで軽快な言葉を使ったり。

 

それは、どっちが先であるのか。

 

そのような言葉を使うからそういう人格になったのか、

そういう人格だからそのような言葉を使うのか。

または、その両方か。

 

このようなことを考えるのが好きです。

 

 

 

 

また、言葉遣い以外にも考えることがあります。

例えば、動物について。

 

 

犬、猫、馬、牛、サルなどのような動物は、言語を持ちません。

しかし、エサを食べたり、大地を駆けまわったり、仲間の顔を覚えたりします。

それは、どのように行われているのか。

 

ぼくたち人間は、何かを考えようとしたとき、必ず最初に言葉が頭に浮かびます。

「今日は何を食べようかな」「あっ、あの人テレビで見たことある」

など、無意識のうちにたくさんの言葉が出てきます。

 

そもそも人間は、言葉を操れるようになったことで思考が可能となり、
文明を築き上げることに成功したといわれています。

 

では、人間が頭に言葉が浮かばない状態、

つまり動物たちと同じ状態になったとき、何をどのように考え、どう感じるのか。

 

ぼくにはまったく想像がつきません。

考えれば考えるほど意味が分からなくなって、何だか気持ち悪くなります。

 

それもそうでしょう。

言葉のない世界を言葉で考えること自体がおかしなことなのですから。

 

 

 

 

 

このように、言葉について考えている時、

ぼくは友達といる時の楽しさとは全く別の楽しさを感じます。

 

一番最初にも言いましたが、ほとんど趣味のようなものです。

 

言葉について他にも書きたいことがまだまだたくさんあるのですが、

長すぎてもお互いつまらないと思うので今回はこれぐらいで

やめておきます。

 

また機会があれば書こうと思うので、

興味が出た時に読んでいただけたらと思います。

 

 

 

それではまた。

 

 

 

 

 

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「自分に酔うこと」の必要性について

皆さん、ごきげんはいかがですか?

ちびくろです。

 

今回は、「自分に酔うこと」の必要性について考えたことを書いていこうと思います。

 

 

 

まずはじめに、質問をさせてください。

 

あなたは、過去に頑張っていたこと、または現在頑張っていることはありますか。

 

 

 

 

yesと答えたあなた…

では、その時に「頑張っている自分」のことをどう思いましたか。

 

 

 

Noと答えたあなた…

周りにいた「頑張っている人」を見て、あなたはどう思いましたか。

 

 

 

 

 

いかがでしょうか。

 

 

 

 

 

前者、後者ともにいろいろな意見があると思います。

今の質問に対してのあなたの意見を頭の片隅にとどめながら、これからの文章に目を通していただければと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

先ほどの質問に対してのぼくの答えは、Yesです。

自分で言うのもなんですが、ぼくは小さいころから色々なことを頑張っていたと思います。

 

習い事や学校生活、部活など、すべてに全力で取り組み、楽しんでいました。

 

 

しかし、今になって振り返ってみると、ぼくはやっぱり感じてしまいます。

 

「自分に酔っていたなぁ」と。

 

それと同時に、

 

「自分に酔うことが恥ずかしくなってしまったなぁ」と。

 

 

 

現在、ぼくは大学三年生ですが、特にこれといって頑張っていることはありません。

筋トレやこのブログも、ただの趣味です。

 

そう考えると、過去の自分と比べ冷めてしまった自分がいます。

 

 

では、過去と現在の自分では何が違うのか。

それは、やはり「自分に酔う」ことができるかどうかだと感じています。

 

 

 

 

数年の月日が経ち、過去の自分がやってきたことを少しだけ客観的に見ることができるようになりました。

 

ぼくは、小学三年生から高校三年生になるまでの12年間、野球に情熱を捧げました。

しかし、今考えると部活生って「異常」ですよね 笑

 

日が照り、気温が30度を超える中でランニングをする。

やりたくない日も部室やグラウンドに向かう。

せっかくの長期休みを部活に費やす。

 

どう考えても狂ってますよね。

今やれと言われたら、120%できません。

 

 

まだまだあります。

 

 

チームメイトのことを「仲間」と呼んだり、

LINEのアイコンやホーム画像をこういうのにしてみたり、

 

 


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ゲキ痛です。

ゲキ痛すぎます。

 

自分にトコトン酔っていたんだなと思います。

こんなのシラフじゃできないですよね。

 

 

しかしそれのおかげで、きつくてつらい練習を続けられていた自分がいたのは事実。
その原動力となったのは「試合で活躍したい」「もっと上手くなりたい」等の気持ち、そしてそれを含めた自分の行動のすべてに酔うことができていたからだと思います。

 

 

 

 

つまり、何が言いたいかというと、

「自分に酔うこと」は頑張ることにおいて必要なものだということです。

 

 

 

自分に酔っているうちは、周りの雑音を気にすることなく

自分の世界に入り込むことができます。

 

しかし目が覚めてしまうと、

急に「これでいいのだろうか」などという不安や心配がこみあげてしまいます。

 

そうなってしまうと、行動に迷いが生じ、頑張ることを躊躇してしまいます。

 

 

ぼくが思うに、最後まで自分に酔いきれた人が

アスリートやいわゆる成功者と呼ばれる人になっています。

 

 

年を取るにつれて、自分に酔うなんてことは恥ずかしく感じると思いますが、頑張ることにおいて必要な要素だということは頭のどこか片隅にでも置いていただけたらなと思います。

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

ここまで書いていてなんですが、

ぼくは、ザ・自分に酔ってます☆みたいな人が苦手です。

 

例えば、プライベートのアカウントで

「○時間勉強した、絶対合格する」

「無駄な時間を過ごさない、通知をしばらくオフにします」

というような投稿をしている人を見たら、

 

少しキモチワルイなと思ってしまいます。

 

自分のことは自分で完結できないのかしら、と思っちゃいます。

 

 

でも、これはぼくの性格がひねくれているから、

そして冷めてしまっているからだと思います。

そう考えるようにしています。

 

 

もし、ぼくがSNSにこのようなことを載せているのを見たら、

「お、自分に酔ってきているな!がんばれっ!!!!!」

 

と応援してくれたらうれしいです。

 

 

 

いつになるかは分かりませんが。

 

 

 

 

それではまた。

 

 

 

 

 

 

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コンプレックスについて

みなさん、ごきげんはいかがですか?

ちびくろです。

 

今回は、「コンプレックス」について考えたことを書いていこうと思います。

 

 

 

もともと「コンプレックス」という言葉は、心理学や精神分析の際などに使われる用語であるそうなのですが、この記事では一般的な会話等で使われる「劣等感」という意味について考えていきたいと思います。

 

ぼくが思うに、コンプレックスは世界中の誰しもが抱えているものです。

 

クラスで人気なあの人も、いつも笑顔なあの人も、

歌って踊れるアイドルも、話題のイケメン俳優も、

程度の差はあれど、みんなコンプレックスを抱えて生きている。

と、ぼくは思います。

 

自分から見ればすべてが完璧に見える人が、コンプレックスを抱いているなんて

あまり想像できませんよね。

 

では、なぜぼくがそう考えるのか。

それは、コンプレックスはなぜ生まれるのかという問いの答えに深く関係します。

 

 

読み進める前に、問いについてあなたも考えてみてください。

 

コンプレックスはなぜ生まれるのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

どうでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コンプレックスが生まれる原因。

それは、「比較する対象が存在すること」です。

 

比較する対象とは、つまり「他人」のことです。

 

ぼくたちは、生まれてから死ぬまで人と関わり続けます。

自分の親、友人、クラスメイト、よく行くお店の店員。

どこにでも人はいます。

 

その人たちの中には、自分より素晴らしい(と思える)ものを

持っている人がたくさんいます。

 

人間は欲張りなので、自分の持っていないものを欲しがります。

 

ぼくはもっと欲張りなので、

○○さんの容姿、○○さんの性格、○○さんの才能…

など、良いとこどりができたらなぁ、とよく思います。

 

 

しかし、ぼくらが憧れる人よりもさらに上はおり、

また人それぞれ望むものは違うでしょうから、

世界中を見渡せばそれは永遠に続いていくでしょう。

 

 

では逆に、比較する対象がする存在しない世界、

つまり自分以外の人間がいない世界であればどうでしょうか。

少し想像してみてください。

 

生まれてから死ぬまで、無人島のようなところにひとりで

のんびりと暮らしているあなたの姿を。

 

おそらく、コンプレックスなんて生まれないと思います。

 

 

 

 

 

結局なにが言いたいかというと、

コンプレックスは他人がいる限り生まれるものなのです。

 

 

これは、もう仕方がないです。

割り切るしかありません。

 

 

では、ぼくたちはコンプレックスとどう向き合っていけばいいのでしょうか。

 

コンプレックスが生まれるのを防ぐのは、難しいです。

感情は自然に芽生えるものですし、

常識的に考えて、他者と完全に離れて生活をするなんてほぼ不可能です。

 

 

そうなると、残された道はひとつ。

月並みですが、コンプレックスを受け入れ、克服すること。

これしかないと思っています。

 

 

しかし、これは誰かも言っているように口で言うほど簡単じゃありません。

 

 

まず、最初のステップである「受け入れること」がめちゃめちゃ難しい。

それに加えて、「克服する」はもっと難しい。

 

普通、自分の嫌なところはあまり見たくないじゃないですか。

努力で変えられる部分ならまだしも、

容姿や才能など、天性に大きく左右されるものであれば尚更です。

 

「あの人はいいな…」「なんで自分だけ…」と卑屈になってしまうのも無理はありません。

 

 

ぼく自身、今日までの22年間ずっとそのように卑屈でひねくれた考えを持ちながら生きてきました。

しかし最近、おっいいな、マネしてみたいな、と思った考え方があります。

 

 

 

それは、「自分史上、最高の自分になる」というものでした。

 

 

 

他の人には劣っているが、以前の自分よりは理想に近づいている。

コンプレックスを燃料として、自分を高めているのです。

 

ぼくは、これを良いコンプレックスの持ち方だと考えます。

 

この考え方を実践できれば、少なくともコンプレックスを受け入れ、克服しようと進んでいる段階までには到達できているのではないかと思います。

 

 

 

コンプレックスに限らず、他のことにも言えますが

前に進んでさえいれば気にしすぎることはなくなります。

 

テストやレポートなども、おそらく勉強をしている時よりも

する前のほうが憂鬱だと思います。

 

コンプレックスをあまり気にしなくなるという点で言えば、

克服しようとしている時点でほとんど克服していると言ってもいいのではないでしょうか。

 

 

 

 

ぼくはたくさんのコンプレックスを抱えており、その全部を受け入れることは全くできていません。

しかし、趣味の筋トレにおいては少しずつ成長しているなと感じています。

向き合うべきものがたくさんある中で、一つでも前に進んでいるものがあれば、不思議と自分のことを完全に嫌うことはできなくなります。

 

なので、いっぺんに克服しようとするのではなく、

ひとつずつできそうなものから始めてみるといいのではないかと思います。

 

 

 

 

自分史上、最高の自分になる。

 

 

 

 

まだまだ道のりは長いですが、コンプレックスを燃料に変えて

ゆっくりと走り続けます。

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーー

 

ここまでいろいろと考えを書かせてもらったのですが、

おもしろいことにコンプレックスなんてほとんどが自分で気にしすぎているだけの場合が多いんですよね。

 

意外と、みんな他人のことに興味がないわけです。

そのことを頭ではわかっていても、やっぱり気にしてしまうんですよね。

 

 

他人の目線から自分を解放する。

 

 

それが、真にコンプレックスを克服することなのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

それではまた。

 

 

 

 

 

 

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お笑いは「芸術」か「スポーツ」か

皆さん、ごきげんはいかがですか?

ちびくろです。

 

今回は、ぼくの大好きな「お笑い」について考えたことを書いていこうと思います。

 

 

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はじめに、少しだけぼくの話を。

 

ぼくは、小さい頃からお笑いが好きで、よくテレビで観ていました。

当時はスマホも持っていなかったので、芸人さんのネタ番組は必ず録画して何度も観ていました。

 

そして、高校生になると、何かの縁で生徒の前で漫才などをやらせていただく機会をもらえるようになりました。

実際に舞台でやってみると、人前でお笑いをする楽しさ、難しさなど、色々なことを知ることができました。

 

それから数年経ち、今に至るわけなのですが、

当時は何とも思っていなかったことが、最近になってふと気にかかり始めたことがあります。

 

それは、「お笑いはどのジャンルに含まれるのか」ということです。

 

お笑いはお笑いだっ…!!!

などという身も蓋もないことを言われると弱ってしまいますので、そこは目をつぶっていただければと思います。

 

 

 

まず、ぼくはお笑いは「芸術」か「スポーツ」のどちらかだ、

というところまで絞り込みました。

 

ここまでは、あまり難しいことではありませんでした。

しかし、この二つから一つを決定することに苦労しました。

 

 

お笑いは、芸人さんの脳から生み出される創作物、芸術作品だとも言えますし、その一方でM-1グランプリやキングオブコントのような、勝ち負けにこだわったスポーツのようなステージも存在します。

 

では、芸術とスポーツを組み合わせたものなのか、と言われると、それはそれで違和感を覚えます。

 

芸術かスポーツ、いったいどちらなのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

—結論から言うと、ぼくはお笑いは「芸術」であるとしました。

 

その結論に至った過程を、今から見ていただきたいと思います。

 

この結論はあくまでぼくの考えなので、

皆さんも一緒に、芸術かスポーツなのか、はたまた他のジャンルであるのか、考えながら読んでいただきたいと思います。

 

 

 

 

まず、「芸術」か「スポーツ」か判別するためには、

両者の違いを考える必要があります。

 

 

芸術といってもなんだかざっくりしているので、

少し具体例を挙げてみましょう。

文芸や絵画、音楽や映画、演劇などですね。

 

一方、スポーツは説明不要だと思います。

 

この両者の違いは何なのか。

互いに分野が違うので、ここでは「目的」という観点から考えてみたいと思います。

また、目的にも様々なものがあるので、ここでは一般的に考えられている第一義的な目的とします。

 

異論はあると思いますが、ぼくはこのように考えました。

 

 

芸術の目的:人の感情に訴えかけ、受け手の心に何かを残すこと。

スポーツの目的:目の前にいる相手に勝利すること。

 

 

こう考えてみると、たしかにお笑いは二つに当てはまる気がします。

お笑いは、名前の通り人の「笑い」という「感情」に訴えかけるものですし、一方で先述したように勝ち負けを競う賞レースも存在します。

 

ですが、少しだけ細かく考えてみると、大きな違いが明らかになります。

それは、「目的」と「結果」を区別することで明確になります。

 

 

 

両者の目的は、先述したように

 

芸術の目的:人の感情に訴えかけ、受け手の心に何かを残すこと。

スポーツの目的:目の前にいる相手に勝利する(またはしようとする)こと。

 

です。

では、その目的を果たした結果、どうなるのでしょうか。

 

 

芸術では、人の心を動かした結果、賞を受賞したり認知されたりします。

スポーツは、試合に勝利を目指した結果、人を感動させたり注目を浴びたりします。

 

 

つまり、

芸術は    感情を揺さぶる→勝利(報酬)を得る

スポーツは  勝利(を目指す)→感情を揺さぶる  と言えるのです。

 

 

これの逆は起こりえません。

芸術では、?となりますし、

スポーツでは、感情を揺さぶった方が勝てるわけではないですからね。

 

 

賞レースなどもこの考えから説明がつきます。

お客さんや審査員を笑わせた(感情)→賞がもらえる(報酬)

 

 

このように考えてみると、お笑いは前者、

つまり「芸術」だということが理解できるのではないでしょうか。

 

 

皆さんはどう考えますか?

先ほども言ったように、これはあくまでぼくの意見です。

正解ではありません。

 

このような考え方もあるんだな、と

頭の片隅にでも置いていただければ嬉しいです。

 

 

このテーマについて、ぜひ皆さんの考えもお聞かせください。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

本文で、お笑いは「人の感情を動かす」ものであると紹介しました。

 

人の感情を動かす、これがどんなに大変なことなのか、

ほとんどの人が理解できると思います。

 

スポーツは結果的に感情を動かしますが、

お笑いは意図的に感情を揺さぶります。

 

この違いは、非常に大きいです。

 

 

もちろん、スポーツを下に見ているわけでは決してありません。

ぼくも小学校から高校までずっと野球をしていましたし、

その魅力にどっぷりとのめりこみました。

 

ぼくがここで言いたいのは、お笑い芸人のすごさを

もっと知ってほしいということです。

 

ひいては、芸術の素晴らしさと

もう一度向かい合ってほしいなと思います。

 

ぼくは、大学に入ってから少しずつ芸術に興味を持ち始めました。

全く詳しくはありませんし、本来はぼくが言うことではないのですが、本当に芸術は素晴らしいです。

 

時間がある時に、スマホを置いて映画を一本観てみる、

小説を30分読んでみる、たまに美術館に足を運んでみる。

もちろん、お笑い鑑賞も。

 

 

芸術は、人生に彩りを与えます。豊かさを与えます。

 

 

ぜひ、少しでも芸術に触れてみてください。

 

 

 

 

 

それではまた。

 

 

 

 

 

 

 

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人にとやかく言う人は不自由に死ぬ

皆さん、ごきげんはいかがですか?

ちびくろです。

 

今回は、「人がやっていることにとやかく言う人」について考えたことを書いていきます。

 

 

人が何か挑戦していること、または趣味や習い事などに対して、

何かと突っかかってくる「とやかく言う人」(通称とや人)。

 

「それ、何の意味があるの?」「どうせ上手くいかないだろ」

「あんまりおもしろくなさそう」

まるで息を吐くように、次々と嫌味を投げかけてきます。

 

おそらく、あなたの周りにも一人はいると思います。

 

ハッキリ言って、ぼくはそのような人が大嫌いです。

ほんと嫌い。キモいです。

 

 

この記事は、そんな「とや人」への警告と、

心優しい読者の皆さん(や、ぼく)がいつか「とや人」になってしまわないように、心にとどめておくべき考え方を文章に残しておこうと思います。

 

 

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結論から言いますと、とや人は不自由に死にます

 

すっごいこわい言葉。不自由に死ぬて。

 

 

 

ですが、これは本当です。

理由は、至ってシンプルです。順を追って説明します。

 

人にとやかく言う、ということは、

言葉の対象を下に見ているということになります。

 

悪口というのは、

まず前提として「自分は正しい」という考えがないといけません。

正しさがなければ悪もないですし、

自分が正しくなければ何かを批判できないですからね。

とや人は、自分が正義、間違いなく正しいと考えています。

そして、物事に正しい(と思い込んでいる)定規をあてて、それが良いのか悪いのかを判断しています。

 

とや人の思考回路としては、

 

(自分の定規に合わないものは悪だ→してはいけないことだ→してる人はバカだ→悪口発射)

 

って感じなんですよね。

 

 

なので、基本的に人や人がやることを見下しています。

 

 

しかし、ここで少し考えてみると、あることが分かります。

悪口を言っているということは、その人は

そのことをやらないと宣言しているのと同じようなものなのです。

 

なぜなら、そのことを下に見ていて、している人はバカだと言っているのと変わりは

ないからです。やるはずがありません。

 

その結果、とや人たちは自分で自分のすることを制限し、狭めていっているのです。

 

つまり、とや人たちは不自由に死ぬのです。

こわいですね。

 

 

では、このような悲惨な目に合わないようにするにはどうすればいいのか。

それはやはり、人のやっていることに対して突っかからないことでしょう。

 

もう少し言えば、思うことがあっても口には出さないことです。

あれ?と思ってしまうことは仕方がないです。人間ですから。

しかし、それを口に出すのと出さないのでは大きく異なります。

 

とや人たちは、口に出してしまっていることで後に引けなくなります。

こいつはこのことを悪く言っているし、やらないんだなと認識されるからです。

 

反射的に口に出さないように気を付けるべきだと思います。

 

 

 

自分で自分を不自由にしないためにも、

自分の言動にはよく注意して行動していくべきだと、ぼくは考えています。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

この記事を書くきっかけになったのは、ぼくの実体験です。

 

友人が、ぼくが筋トレをしていることを小バカにしてきたので、少しイラっときました。ぼくは、こうならないようにしようと決めました。

 

言った人はあまり気にしていないと思いますが、

言われた方はやっぱり何か引っ掛かります。

 

なので、自分のためにも、人のためにも、他人の行動に余計に口出しをしないこと。

それが良いなと思います。

 

 

 

 

それではまた。

 

 

 

 

 

 

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思ったよりブーメラン投げてるよって話

 

いきなりですが、質問です。

皆さんは、自分の言動を正確に把握できていますか?

 

 

改めて考えてみると、胸を張ってYESと言える人は少ないのではないでしょうか。

 

しかし実際は、ほとんどの人が普段からしっかり自分のことを把握できていると考えています。

 

ぼく自身もそのように考えてしまうことが多々ありますし、また言動が矛盾している人と出会うこともたくさんあります。

 

例えば、よく遅刻してくる友人Aが、友人Bが遅れてくることを知ると「あいついつも遅刻してくるんだよなぁ」とつぶやいたり、「〇〇しないほうがいいよ」と言ってくる友人が常日頃からそんなことやってたり。

 

普通、自分の言動をしっかり把握できていればそんなことはできるはずありません。

特大のブーメランをぶっ放していることになりますからね。

 

 

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ですが、そんな光景を多く目にすることも事実です。

 

 

 

では、どのようにしていけば自分のことをより把握できるのか。

そのことについて、ぼくなりの考えを書いていこうと思います。

 

 

 

 

実は、これだ!という答えはすでに出ています。

普通に考えたらわかることですし、あらためて言うほどのことではないのですが。

 

一応言っておくと、自分を客観的に見ることです。

 

 

…当たり前ですね。

 

 

 

しかし。しかしです。

この「自分を客観的に見る」ということが非常に難しいのです。

 

それができていないから、空中には大量のブーメランが飛び交っているのです。

 

 

では、なぜ「自分を客観的に見る」ことが難しいのか。

それは、人間には自分を可愛がる感情があるからです。

 

その感情が、客観的な事実を捻じ曲げてしまうのです。

先ほどの遅刻の例を取り上げてみましょう。

 

よく遅刻してくる友人Aは、自分のことは棚にあげて遅刻してきた友人Bに文句を言います。おそらく、この時の友人Aの頭の中では、「あの時は疲れていたから昼寝してしまったのも仕方がない」などの言い訳が無限に出てくるでしょう。

 

これは、自分が可愛いがゆえに無意識に自身を擁護してしまっているのです。

なので、友人Aは遅れてきた友人Bに対して「自分は仕方がない、でもこいつはただ遅刻をしただけだ」というズレた解釈をしてしまい、「あいついつも遅刻してくるんだよなぁ」などと言ってしまうのです。

 

 

こういう恥ずかしいことは、できるだけ避けたいですよね。

 

なので、ぼくなりにその方法を考えてみました。

 

 

一番いい方法は、常にロボットと行動して自分の言動を逐一メモしてもらうというものですが、あまりにも非現実的ですよね。

 

なので、それを自分でやっちゃいましょうというのが、ぼくの考えた方法です。

つまり、自分のことを紙に書きこむのです。

 

感情は一切省き、事実だけを淡々と記入していく。

そうすれば、自分の今ある状況、考え方、言動等をより正しく把握できると思います。

 

やはり、どうしても無意識に感情が介入してくることがあるので、完璧に客観視できるとは思えませんが、有効な方法だと思います。

 

 

そうすれば、自分の言動の矛盾に気づくことができるだけでなく、、自分の立場、今やるべきことなど多くのことが分かってくると思います。

 

自分のことについて考えることは、時に苦しみが伴うことがありますが、それを乗り越えてこそ「本当の自分」を理解できるのだとぼくは思います。

 

 

 

ぜひ、試してください。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

正直言うと、ぼくも自分自身について考えることは苦手です。

 

現実を見るのが怖いからです。

自分は何者かであるはず、何か才能があるはずだ、というわずかながらの可能性を消されてしまうのが怖いからです。

 

しかし、それでもぼくたちは現実と向き合わなければなりません。

自分の存在がどれだけちっぽけなモノであっても、それに「気づいている人」と「気づいていない人」には大きな差があります。

 

自分の現在地を正しく把握できてからが「スタート」なのです。

 

 

ありもしない可能性を半ば本気で信じたまま、気がつけば40年が過ぎている…

そうなってしまうと、もう目も当てられません。

 

 

そうならないためにも、まずは今の立ち位置を把握しましょう。

そこから、始めましょう。

 

 

 

 

 

 

少し話が大きくなってしまいましたが、

とりあえずブーメランを投げてしまわないようにしましょう。

ってことですね(まとまってない)。

 

 

 

それではまた。

 

 

 

 

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うちなータイムを抹消したい

皆さん、ごきげんはいかがですか?

ちびくろです。

 

いきなりですが、ぼくは「おきなわ」が大好きです。

気温が穏やかで、人当たりがよく、まったりと時間が流れていく。

おきなわで生まれ育ったことが、ぼくの一番の幸運であると思えるほどです。

 

しかし、そんな大好きなおきなわにも、一つだけ嫌いなところがあります。

 

 

それは、「うちなータイム」というおきなわ独特の文化(?)です。

 

 

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うちなータイムとは、「おきなわ特有のゆったりとした時間感覚」のことです

例えば、飲み会の集合時間に遅れることは当たり前で、時間通りに集まったのは一人だけ、みたいなことが起こる現象です。

 

他県では、考えられませんよね。

 

 

そんなうちなータイムを、ぼくはどうにかしたいなぁと思うわけです。

その理由は単純で、ぼくが人を待つことが嫌いだからです。

 

なぜなら、その待っている時間にできたはずのことができなくなるからです。

その時間でトレーニングができたな、じっくり読書ができたな、こうやってブログを書けたのかなと思うと、時間がもったいない気がしてならないのです。

 

時間を盗まれた感覚です。イライラします。

 

また、時間を奪われたくない人の気持ちも痛いほどわかるので、人を待たせるのも嫌です。その結果、時間通りに到着しますが、他の人を待たなければならないという状況が生まれるのです。

 

 

またそれ以上にムカつくのが、うちなータイムだと言えば遅刻していいと思っている輩です。

そもそも、ぼくはうちなータイムはただの言い訳としか思っていません。

前の用事が押した、などの仕方がないような理由があれば、当然納得します。

しかし、自信満々な顔で遅れてきてやたらうちなータイムうちなータイム言っているやつは、120%暇です。断言できます。これは、この世の数少ない真理のうちの一つです。

 

 

 

じゃあ、解決方法として遅刻したみんなから罰金としてお金を徴収すればいいじゃないか、という意見もありましたが、それは難しいです。

 

そんなものにうちなータイムを止められるわけがありません。

その方法は、遅刻する人が少数派になった時にしか効果を発揮しません。

考えてみてください、ほぼ全員が遅刻するという状況を。

それでは、時間通り集まった人が少数派となり、数の暴力で罰金はなぁなぁになってしまいます。おきなわでは、通用しないのです。

 

というか、そもそも罰金だとかいう人とは遊びたくないですしね。

 

 

では、どうすればいいのか。

これが、実は非常に難しい問題なのです。

 

うちなータイム問題は、思ったより根深いです。

なぜなら、ぼくのようにうちなータイムが嫌いな人も、そっち側に回ってしまうようなことが起きるからです。

 

流れとしては、下のような感じです。

 

人を待たせたくない→時間通りに到着→うちなータイム発動→

人を待つ→もっと遅くこればよかった→次からは少し遅れてくる→

さらに遅れてくる→…

 

 

そうやって、人を待つのが嫌いだからこそ

逆にうちなータイムに取り込まれてしまうという、矛盾。

 

それを、ぼくは「うちなータイムパラドックス」と呼んでいます。

その「うちパラ」に巻き込まれ、徐々に時間にルーズになってしまうのです。

 

 

そうやって、うちなータイムに反旗を翻した勇者たちが

次々と敗れ去っていくのです。

 

うちなータイム、おそるべし。

 

 

どうにか解決方法を見つけようと、考えている日々です。

 

 

 

まぁ、なんだかんだ言ってこんなのんびりとした

おきなわにいつも癒されるんですが。

 

 

 

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こんな記事を書いていてなんですが、ハッキリ言っておきたいことは「おきなわの人全員が全員時間にルーズであるというわけではない」ということです。

 

しっかり時間通りに動ける人はたくさんいます。

おきなわの人だから、というイメージで勝手に判断されては困る人もたくさんいます。

 

何事もそうですが、イメージで勝手に決めつけることは良くないです。

 

それだけは、頭の片隅においていただけたらなと思います。

 

 

 

 

それではまた。

 

 

 

 

 

 

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